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「運命」(第3回)
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    おはようございます。第3回は、きんさんから頂いたテーマ「運命」について。

    端的にいえば、僕は「運命論者」である。どういうことかというと、つまり人生は始めから全て決まっていて自分で決めることはできないと思っている。なぜそう思うに至ったか。それは、「自分」という概念をあるときから疑い始めたからである。「選択の科学」とか「ジルボルトテイラーのパワフルな洞察の発作」の話をテレビ番組で視たときに、こういう話が世界の大学でも語られているということを知って、日本の文化を今一度見つめ直したいと思ったのが大学三年の終わり頃で、それがちょうど「いち雄」に入った時期であって、この「運命」的な出会いについては、話せばキリがないので今回は割愛させていただく。まあ、そもそも動機はなんでもいいか。

    僕のような人間がいる一方で「すべては自分が決めている。人生の責任は自分にある。」と思っている人もまた、多い。だが考えると、生まれることを自分で選んだわけではないし、死ぬタイミングを自分で決めて、それを実行することは善くないこととされている。話が極端かと思われるかもしれない。例えば、就職先を決める。これだって、自分で決めたというより、「流れ」みたいなものでそこにいると考えた方が自然な場合がある。「縁」という言葉も人生が語られるときによく使われるが、「縁」を自分で決めることなんて出来ないだろう。だから尊ばれるのだ。

    しかしながら、大抵の人は「運命論」と「自己決定」を器用に使い分けていて、僕はそれでいいと思っている。ときには「運命」といい、ときには「自分の責任」という。それが普通に生きていく術だろう。僕も大げさに「運命論者」とか言ってみたが、すべてを天命に任せているわけではない。勿論だが。そのことを表す丁度良い言葉があった。

    「人事を尽くして天命を待つ」である。

    やるだけやったら、もう後は「運命」なりなんなりにお任せである。自分の力の及ばない範囲は、仕方がない。

    それから、「運命」を信じてみると、人生はより「自由」になる。これは断定してもいい。すべてが決まっているから、自由になれるのである。一見矛盾した物言いに聞こえるかも知れないが、つまり何をしても、もともと結果は同じなんだと思えれば「楽」ではないか。だから、無理をしなくてもよくなる。まあ、これを素直に聞き入れてくれる人は少ないが。

    最後に、24歳の僕が、なぜこんな爺臭い文章を書いているのかというと、それは紛れもなく「養老孟司」の影響である。古本屋で、10円で買った「バカの壁」が、自分を変えるきっかけになるなんて、そのときは思ってもみなかった。今振り返ってみればあれもまさしく「運命」の出会いだった。この話も、またいつか出来ればしたい。

    総括としては「運命」って、ロマンがあっていいよねっていうことです。

    そんな雑な終わり方で第3回を締めます。なぜなら、眠いからです。申し訳ありません。また、ペースが良すぎて自作自演かと疑われそうなテーマ募集の件ですが、今後もどしどし受け付けますので。ぜひ。

    山田哲大

    【2015.04.13 Monday 08:39】 author :
    | - | comments(2) | - |
    この記事に関するコメント
    日記に早速取りあげていただきありがとうございました。
    負担にならない程度に参考にしていただけると幸いです
    テーマ「幸せ」
    | きんさん | 2015/04/15 7:50 PM |
    きんさん、こちらこそ、ありがとうございます。できるだけ楽しんで頂けるように書いているつもりですが、ご期待に添えているかは不明です。また、宜しくお願いします。
    | 山田 | 2015/04/16 5:36 AM |
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